理数男子のつぶやき

某大学に通っている理数男子が語ったり語らなかったり。ブログはあくまで個人の未熟な発言からできているのであしからず。

教採勉強メモ[#1 教員の働き方改革]

 みなさまいかがお過ごしでしょうか。

 私は教員採用試験の勉強をしています…

 

 その勉強の中でも、大きいイベントとして大学主催の

 「教採勉強会」と言うのがあり、今はそこで面接指導などを受けています。

 

 その勉強会では、資料が配布されているのですが

 基本的なことしか書かれていないのでまとめようと思ったので、

 このブログでまとめていこうかなぁと思って適当にまとめていこうと思います。

 今回は第7(誰もわからないと思うけど)のまとめをしようと思います。

〇集団面接で大切なことは?

 集団面接で大切なことは、「集団では敵ではない、仲間だと思う」こと。

 個人面接では「教職教養」や「人間性」を見ているのに対して、

 集団面接ではそれらの知識に加え、仲間とのコミュニケーションなどの

 対人関係スキルなどもより一層問われてくる

 

 集団面接・集団評論では決して相手を打ち負かすことなどは求められていない。

 意見がまとまらなくても考えを深めることや、

 反対意見でも相手の考えを認めたうえで討論をすることが大事。

 

 大学生活において、集団討論をやったことないので本当に「どうなる!?」

 という気持ち…

 しかし、学校内でのまとまりがものすごく強い教員が必要なスキル

 であることは間違いないので、ここは頑張らないといけないですねぇ…

 

今回の問題

集団面接テーマ(長野県,2018)教員の長時間労働を短縮するための方策について話し合って下さい。
※2分考え→各自1分意見発表→20分集団討論→集団面接

 

初見の感想としては…

 初見の感想としては「えっこれ集団面接でやるの!?」と思った。

 その理由としては「面接官となる管理職の前ではそんなこと言えない」

 「私たちが言っても結局は机上の空論じゃないか」と言うことが考えられる。

 また、変なことを言ったら「お前はさぼりたいだけじゃないの?」

 と疑われかねない。恐ろしい質問だ…

 

 じゃあ、そんなことを避けるためにはどうすればよいか…?

 そこで考えていたこととしては

 「生徒の気持ちを考えて言っている」

 とか

 「よりよい教育を保障するために」

  とか言えればいいかなぁという考えになりました。

  

 そうすれば、いいのかなぁ…

 

自分の論としては…

 「教員の労働時間を減らすためには、意識を改めるとともに

 様々な人やものとの繋がりをもっと深めていくべきである

 くらいが、"面接で言う"答えである気がしました…

 

 その心としては、

 まずは"意識"がないと話にならないので論として組み込むとともに、

 近年はスクールカウンセラーはもちろん、部活動専門職員、ICT支援員、

 用務員、事務員などの教員ではないスタッフが増えています。

 まずはそのスタッフと連携することで仕事が減らせるのではないか

 また、校務の分掌なども情報化を推進することにより仕事量が減るので、

 「もの」と言うのはそのように電子機器などのものとつながることで

 仕事が減るのではないかなと感じました。

 

 そんなものなのかな…

 

 ちなみに…

 ちなみに、教員の働き方改革についてのネタは

 以前にこんな資料を読んだことがあったのでなんとなくは論が固まっていました。

www.mext.go.jp (あれ、これ前にブログであげてなかったか)「教員の働き方改革」について考えたこと[#1] - 理数男子のつぶやき

 

 ここで、ちょっと気になった点としては「本来教員がやるべき仕事ってなに?」

 と言うことです。そのことについて資料では:

f:id:unya_unya2:20201214231900j:plain

新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(答申)【概要】 (平成31年1月25日中央教育審議会)

 

 こんな感じで仕事は分類されており、

 「仕事を減らす具体例と言えばなんでしょう?」

 みたいなのを聞かれたときに使えそうな資料ですね。メモメモ…

 

 おわりに

 そんなわけで、第7回「教員の働き方改革」の回はこんな感じです。

 今現在でもホットな話題なので面接で使わなくとも、

 受かれば将来的に使えそうなネタですね。

  

 次回は「主体的・対話的な学びって?」を書く予定です。

 それではまた。

vs 司書教諭講習(in放送大学) [#5(終) 成績開示]

 単位認定課題を出して2か月近く経ちました。

 その単位認定課題については、1日で5本書いたおかげで半泣きになったり、

 ずぶ濡れになったり様々なドラマがあったことを思いだします。

 

 まぁそんな思い出は置いといて、ちらちら成績が出ないか見ていたわけですが…

 

 

 成績が出るぞ!

 そんなとある11月下旬の日、連絡が来ました。

f:id:unya_unya2:20201207223801j:plain

 ついに、12月3日に成績が出ることが発表されました。

 

放送大の講義は単位が出づらい?

 この2か月間、単位が出るか出ないかけっこうびびってました。

 その理由の1つとしては、ネットの検索を見る感じ「落ちた」という人がいること。

 しかも、結構真面目そうな人に限って。

 例えば…

blog.livedoor.jp

 この記事とかそうですね。

 まぁ正直今になっては「テスト後に自己採点して安心を得たかった」

 という理由なのでしょうもないんですけど。

 この問いに関する詳しい答えは#6のレポート反省会で言う予定ですが、

 簡潔に言うと「要点だけちゃんとまとめれば単位は出る」と思います。

 

いよいよ、成績開示。

 さてさてwakaba見てみますか…

 というか、自分のレポートは1本文献探し含め1時間半ペースで作ってたし落としてもしょうもないよなぁ…うーん…

 

f:id:unya_unya2:20201207223803j:plain

 うおおおおおおおおおお単位出てるやんけ!!!!!!

 しかもフルコンプ。

 

 成績は、

 A〇(100~90)>A(89~80)>B(79~70)>C(69~60)>(合格の壁)>D(59~50)>E(~49)

 となっているわけですが、そう考えると結構微妙な成績をとったなぁと思います。

 しかし、制作時間1時間半でできたと考えれば

 まぁまぁ上出来なことではなかったのかなぁと。

 

 私は

 「レポートとはテストよりも今までどのように学んできたかが如実にわかるもの」

 だと考えています。

 しかも放送大のレポートは文字数制限がかなりきついので、

 冗長に文章を書くことができず、

 本当に大事なことしか書けないのでつらいレポートだと思いました。

 

…で、この後は?

 これで単位が全部出たということで、

 3月あたりに司書教諭の認定証?が届くらしいです。

 これで教員採用試験に挑めば少しは有利に働いたりするかなぁの気持ちです。

 

司書教諭講習の感想

 司書教諭講習を終わった感想としては

 司書教諭講習を通じて新しい教育の形を見れたと

 ということです。

 

 講義の中では、

 「司書教諭は教育の情報化を推進していく先駆け人となる」と言ってました。

 司書教諭というと、図書館の司書さんを彷彿とさせるので、

 「読書活動とかを推進するだけなんでしょ?」というイメージがあると思います。

 しかし、司書教諭の使命とはそれだけではありません。

 

 私が一番大きく驚いたのは「学校教育を変えていく」ということでしょうか。

 

 近年では、GIGAスクール構想などが謳われICT環境が整備されています。

 ここから、学校教育では前と比べて「情報」が重要になっていることが分かります。

 

 そこで重要になってくるのが司書教諭ということです。

 学校図書館と言うのは「読書センター」「情報センター」と言われるように、

 読書はもちろん、情報の基盤として活躍していく場所です。

 

 現在の教育のトレンドとして「調べ学習」というのが挙げられますが、

 その学習を支援するのが学校図書館でありますし、

 生徒が「もっと学びたい!」と思って真っ先に調べる場所、

 もっと言えば先生も「もっと学びたい!」と思う場所が学校図書館の理想像です。

 このように「学びの基地」としての学校図書館が期待されます。

 

 また、現代の生徒に求められるものとして、

 氾濫している情報から取捨選択する能力といったように

 情報に関するスキルがとても大切になりました。

 このスキルに対する教育についても司書教諭がとても役に経つと思います。

 

 そんな感じで、学校図書館だけでなく様々なことが学べる講習だったと思います。

 

今後、司書教諭を目指す方に。

 司書教諭免許を取るためには、

 前に言ったように5科目10単位をとらなければなりません。

 その労力というのはかなり大きいです。

 しかし、それに対する見返りも大きいです。

 司書教諭と言うのは、

 上で述べたように「教育の情報化をけん引していく人材」だと思います。

 司書教諭は学校図書館の仕事を学ぶ仕事だとか、朝読を推進する人

 だと思いがちですが、それだけではありません。

 私は「教育の情報化」を知るためにとてもためになる講習だと思いました。

 もしあなたが今の教育を学びたいなら、もっと言えば

 「教育人」として生きるのならば、重要な情報を得れると思います。

 自分としてもぜひぜひおすすめしたい免許だと思いました。

おわりに

 とりあえず、放送大の司書教諭講習はひとまず終わりになりました。

 正直な感想としては、やはり「疲れたなぁ…」という感想です。

 学校の先生はどうなのか知りませんが、

 夏休みを迎える大学生に10単位分の講義をとれってなかなか酷ですよこれ…

 まぁだらだら書いてもしゃーないのでこれで終わります。

  

 ちなみに、レポート反省会を後日できたらあげたいので

 そこまで付き合っていただける方はまたよろしくお願いします。

 

 ここまで、お読みいただきありがとうございました。

 

 ↓過去の記事はこちら↓

#1 出会い

vs 司書教諭講習(in放送大学) [#1 出会い] - 理数男子のつぶやき

#2 申し込み

vs 司書教諭講習(in放送大学) [#2 申し込み] - 理数男子のつぶやき

#3 教材到着

vs 司書教諭講習(in放送大学) [#3 教材到着] - 理数男子のつぶやき

#4 添削指導

vs 司書教諭講習(in放送大学) [#4 添削指導] - 理数男子のつぶやき

#5(終) 成績開示

ここ

#6 レポート反省会

制作中

レポートを書いた記録[1年前期,スポーツ考現学]

 不定期で上げていく、自分が実際にに大学に提出したレポートを晒していくシリーズ。

 第3弾は、2018年度前期「スポーツ考源学」の最終レポートをあげてみようと思います。

 

問題 以下のテーマ(略)から、4つを選び記述せよ。
文字数制限:A43枚程度 かかった時間:4時間くらい
評定:A(優)

 

テーマ7  『スポーツ観戦学』 (世界思想社) 第7章「スポーツ中継のなかの『物語』」を読んでの、読後コメント

 この章では、橋本氏は「テレビ観戦の楽しみとはメディア側が出来事を取捨選択し、現実を再構成した『物語』を味わう楽しみとも言える」(橋本, 2010, p.163)と述べているように、テレビでのスポーツ中継には、実際に会場に足を運んで試合を見ることとは異なる、「物語」を持っているということを述べている。また、その「物語」とは「登場人物の変化とともに、時間的経過と因果関係が必要不可欠」(橋本, 2010, p173)と述べている。

 ここを読んで、私は最近の技術革新などによってこのような「スポーツの物語化」が進んでしまったのだと考えた。なぜなら、昔よりも現場で試合を観戦しない人が持っている情報量が増大したからである。

 日本初のスポーツ中継は昭和2年の第13回全国中等学校優勝野球大会のラジオ中継だった。その当時の情報量としては中継がラジオ放送だったために、選手がどのような動きをしているかなどがわかりにくく、交通網が未発達であったために、試合の結果などを書いた紙媒体などでしか情報を得ることができなかったため、かなり少なかった。しかし、昭和26年には日本初のテレビ放送によるスポーツ中継が行われ、人々の情報量を格段と増やした。テレビ放送は、ラジオ放送と違って耳と目という二つの感覚器官を使うことで、人々は選手の顔を見て、実際の試合風景を鮮明に見ることができるという点などについて多くの情報を与えた。現在においての例を挙げると、テレビのデータ放送が挙げられる。これは、野球のテレビ中継の最中においてボタンを1つ押すだけで選手の打順や守備位置はもちろん、選手データやチームの情報までを知ることができる仕組みである。このことからも、近年の情報技術の発達によって試合を見ることがなくても受け取ることができる情報量が格段に増えたことがわかる。

 また、多くの情報があることによって、スポーツの物語化が進んでしまった。橋本氏は、スポーツ実況において「過去」「現在」「未来」の3つの時間軸を行きつ戻りつしながら「物語」が構成される(橋本, 2010, p175)と述べているが、その実況における「過去」の面においては実況者や視聴者の知識を使い、試合の「未来」を推測することで「物語」が形成されていく。たしかに、箱根駅伝におけるテレビ放送では昔の映像や選手の経歴情報などの膨大に蓄積された情報から実況などを通じて「膨大な物語」を作り出すことによって、何時間も続く駅伝という種目を華やかに見せ、視聴者を飽きさせることがないような仕組みになっている。これは、メディアがスポーツを視聴者たちにわかりやすくさせようとしたばかりに、近年の情報技術により、映像・画像・音声などの媒体を用いて未来を予想することにより、「物語」を生成してしまった。

 

テーマ2 スタジアムの第1~第5世代におけるそれぞれの特徴

 第1世代スタジアムとは、観客収容能力に力点を置いたが、施設のクオリティや、快適性への関心は最小限に抑えた巨大(楕)円形競技場のことである。このスタジアムがあった時代では、通信手段などが未発達であったため、スポーツ見るには、そこに行ってスポーツを見るしかなかった。よって、第一世代では、スポーツに関心がある人は全てスタジアムに行くため、できるだけ観戦料を徴収しようとした設営者は、主に観客収容能力に重点をおいた。これは、観客としては施設内が暑かったり寒かったりしてもそこで観戦するしか選択肢がないため、施設の構造について文句を言うことができずに、問題視されることはなかった。

 第2世代スタジアムとは、テレビ放送が開始されたことから観客減少を食い止めるために、第1世代と違って施設の快適性や、飲食用の売店設備の向上によって作られたスタジアムである。第一世代スタジアムでは、スポーツを見る際にはそこでしか見ることしか選択肢がなかったが、テレビ放送の普及によってスタジアムよりより快適な自宅等の場所において試合を見るようになった。そこで、飲食の売店設備の向上などの快適性や、大きいスクリーンなどを設置することで、そのスタジアムにしかない「特殊性」を高め、テレビ放送に移った観客を取り戻していった。

 第3世代スタジアムとは、第2世代よりも施設の快適性を高め、スタジアムに来る家族全員に魅力的であるようなスタジアムである。当初は、スポーツとは男の文化であった。例えば、古代ギリシャなどの古代オリンピックでは、選手は男性のみの上、既婚の女性は観客席でさえ立ち入ることができない女人禁制のスポーツの祭典であり、相撲でも男性専用のスポーツだという固定観念を持つものも多い。このことからも、スポーツとは、男の文化であることがわかる。また、観客収容能力に重きをおいた第1世代と比べ、スポーツが大衆化したことから観客が収容しきれなくなり、テラス席を廃止してすべて座席にするなどの処置をせざるをえなくなった。

 第4世代スタジアムとは、メディアと企業などとのスポンサーシップを意識したスタジアムである。スタジアムの建設者は、第2、3とスタジアムの改修をしていったのだが、物価の高騰などにより改修する資金もないため、資金難に追われた。そこで、建設者はスポンサーなどを介して資金を調達するようになった。それによって、巨大な広告看板などが増え、スクリーンなどにも技術革新によるCMの挿入などをするようになった。また、そこにメディアなども入り、テレビ写りや写真映えが良い照明や聴覚関連設備が整備されるようになった。

 第5世代スタジアムとは、新しい都市の創造や既存都市の再活性化を見据えた、第4世代までと違う街中にある機能重視型スタジアムである。今までのスタジアムでは、土地の関係上、都市の郊外に設置されていることが多かった。そこにおいて、試合がないときにはスタジアムは閑散としていた。そこで、試合がないときでもそのスタジアムが有効利用できるように、衣・食・住機能を兼ねそろえた施設やレジャー施設を併設することで、スタジアムの有効活用ができ、町おこしなどの地域全体を挙げた催し事などから地域貢献をすることができるようになった。

 

テーマ3 スポーツ観戦空間のパースペクティヴ 

 私は、スタジアムをはじめとしたスポーツ観戦空間は、一種の「聖地」であると考えた。その理由として、そのスポーツ観戦空間は一般的な施設と違い、「聖なるもの」としてみることができるからだ。

 この意見に対し、橋本氏は「スポーツは根源的に宗教的な深い自然衝動が動作となって表出したものであり、スポーツ観戦にも自由の衝動、完璧な儀式への敬意、象徴的意味への強い関心、完全なるものへの熱望が存在し、それを表現する様々な方法がある。」(橋本, 2010, p16)と述べているように、スポーツ観戦には、宗教的な「衝動」、「敬意」、「熱望」という側面から宗教的な側面があることがわかる。よって、これらの側面からスポーツ観戦空間が聖なるものであることを考察していく。

 宗教的な「敬意」という側面については、スポーツの神聖な力から考えることができる。スポーツというのは決められた空間の中において、決められたルールのもとで行われるものである。言い換えれば、スポーツとは、その空間内においてなら、宗教の規則が政府や社会の規則を超越してしまうように、スポーツのルールが社会のルールを超越して行動を起こすことができる。例えばプロレスでは、試合中のリングの中では普通に人を殴り、人を痛めたりするつけることができる。これは現在の社会では到底受け入られないものであるが、その会場では、美しいもの、素晴らしいものだと社会とは真逆の評価が得られる。これは、社会のルールが通用しないスポーツ空間においてのみにおいて適応されるものであり、一つの宗教空間と考えることができる。

 宗教的な「衝動」や「熱望」には、スタジアムというスポーツ観戦空間の神聖さから考えることができる。スタジアムという神聖なる空間は、人にその空間の外において影響を及ぼす。例えば、スポーツを見に行こうとする観客は交通機関などを使ってスタジアムに向かうのだが、街の通りにある垂れ幕、チーム色でラッピングされた電車やバスなどの乗り物、同じユニフォームを着た通行人などを目にすることにより、未だスタジアムにつかなくても気分を高揚させることができる。そこから、私はスタジアムに向かっているのだという情緒と場所が結びつけられた愛が湧いてくる。その空間の外面に対して、スタジアムの内面に入った時には、より神聖さをうかがうことができる。その周りにいる同じ信条を共にする仲間たちの対話、そのチームの応援歌やコールの聴覚的な刺激、その場でしか食べることのできない弁当などの食べ物や飲み物の味などの味覚的な刺激をはじめ、人間の五感全てが刺激される。そして、五感が刺激されることにより、人は強い衝動を覚える。そこから、人はスポーツ観戦空間への熱望が湧き、スポーツ観戦空間という完成した空間への宗教的な帰属意識が生まれる。

 このことから、スポーツ観戦空間とは神聖なものであり、そこでは人々はその空間に対し、スタジアムの内外に散りばめられた様々なアプローチから熱中し、敬愛する。そして、将来的には聖地化したスタジアムがその地域においてのシンボルとなり、スポーツ文化がより発展した将来になるのであろう。

 

テーマ4 文化としてのスポーツの必要性と重要性

 私は、文化としてのスポーツについては人々の関係をよりよくするために必要であると考える。なぜなら、人はスポーツに触れることで人と接する機会を持つからだ。

 まず、文部科学省が出しているスポーツ基本法の前文では、スポーツに対して「スポーツは、次代を担う青少年の体力を向上させるとともに、他者を尊重しこれと協同する精神、公正さと規律を尊ぶ態度や克己心を培い、実践的な思考力や判断力を育む等人格の形成に大きな影響を及ぼすものである。」(文部科学省, 2013, p.1)と定義しているように、スポーツには他者を尊重し、共同活動をしようとする精神等を培うことができるものである。そこで、人間関係について「社会的・政治的な側面」と「生活的側面」について議論していく。

 まず、政治的な側面において、人間関係はよくすることができる。スポーツの世界に社会的な地位や身分が存在しない。スポーツを「見る」ことの視点の例では、古代オリンピックではオリンピックを行う間だけ戦争を休戦して各国でチームを選抜し、お互いが同じフィールドで対等に競い合うことができたことからも、たとえ各国が緊張関係であったとしてもその時だけ社会的地位を忘れて競技に臨めたことが挙げられる。また、スポーツを「見る」視点からも、2018年のロシアで開催されたW杯の開幕戦では、ロシアのプーチン大統領サウジアラビアのサルマン皇太子が同じ部屋で試合観戦をした。これは、両者が対等な立場でスポーツを観戦することにより、その場だけ社会的地位を忘れ、対等で友好的な人間関係を形成することができた例である。よって、政治的な側面についてはスポーツを介して他者を尊重し、人間間の緊張関係を和らげ、人間関係をよくすることができる。

 また、生活の側面からも人間関係をよりよくすることができる。スポーツの文化的機能として、「豊かな交流」という面については、スポーツというのは「する」、「見る」のどちらにおいても他者を介して行うことにより、人間関係を醸成することができる。「する」という面においては、人は試合や練習をする際に他社との交流を通じて、自分がうまい、下手だという自己を相対化してものを考えることができる。そこから、自己のアイデンティティを確立するとともに、相対化した視線を用いて他者を尊重することができる。また、「見る」という視点については、例えば同じチームを応援する際に、他社との会話を通じてそのチームや個人の魅力を伝えあうことで、他者の視点を知ることができて同じチームの応援団として共同し、人間関係を構築することができる。

 よって、このことから文化としてのスポーツは人間関係の構築や、自分自身の構築において必要性、または重要性があることがわかる。

 

参考文献:

・橋本純一(2010)『スポーツ観戦学』世界思想社

橋本一夫(1992)『日本スポーツ放送史』大修館書店

文部科学省(2013)『スポーツ基本法』 閲覧日時:2018年8月2日

URL:http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/kihonhou/attach/1307658.htm

 

レポートを書いた記録[1年前期,教職論]

 不定期で上げていく、自分が実際にに大学に提出したレポートを晒していくシリーズ。

 第2弾は、2018年度前期「教職論」の最終レポートをあげてみようと思います。

 

問題 「個性を大切にする教育」とはどのような教育か?
文字数制限:1000文字以上 かかった時間:6時間くらい
文献制限:1冊以上
評定:A(優)

 

ICTを利用した新しい教育

 

1.はじめに

私が考える「個性を大切にする教育」とは、現代のICTを使った教育である。その理由として、ICTには個人のそれぞれの個性を大切にし、それを伸ばしていける仕組みが多くあるからだ。よって、本レポートではまず、上記にある理由の中でもICTが持つ「個性を大切にし、伸ばしていける仕組み」について議論し、次にそれに対する問題点を提示し、問題点に対する改善点について議論したのち、すべての意見を総括した上で現代のICTを利用した教育がどうあるべきかについて考察をしていく。

 

2. ICTを利用することによる「個性を大切にする」ことの利点

 まず初めに、ICTを利用することによって「個性を大切にする」ことについてどのような利点があるかにおいて考察する。ICTの活用例として、小・中学校などの初等中等教育が挙げられる。中川・苑氏によると、このICTを使う教育について (A)思考を深め、広げるためのICT活用、(B)表現するためのICT活用、という2つの点について議論していた。(中川・苑, 2017, pp.33-36)よって、ここではこの2つの点について初等中等教育の使用例から、ICTと学校教育界全体ついてのかかわりについて考え、「個性を大切にすること」とどのようなかかわりがあるかについて考察する。

(A)思考を深め、広げるためのICT活用

一つ目の初等中等教育においての使用例として、中川・苑氏によると、個人学習に使える環境になると、デジタル教材を用いてそこに自身の考えを書き込んだりすることによって、これまでの紙のノート・ワークシートとは違うデジタルノートの活用ができること、意見整理などの場面でタブレット端末などを利用して資料の一部に書き込んだりできること等の児童生徒の考えを可視化するのに有効である(中川・苑, 2017, pp.34-35)と述べている。そこから考えると、今まででは、様々な教育の場で学習の到達度などを図る際は、テストやノートの確認など実体あるものに対して評価や分析を行っていた。その際に、教師は全て個々の分析をしたり、多くの情報処理をしたりする精神的労力などを費やした上、ノート等を運び、配布する肉体的労力を費やした。それに対して、ICTを利用した教育はタブレット等の軽量な情報端末を用いて、逐一教員などを含めた保護者が生徒の情報を素早く見ることができ、そこからAIなどが教員にとって本当に必要なデータを取捨選択し、それを教員に提供することで、迅速に教員がそれぞれに対応する教育方法・方針を提供することができる。そしてそれをもとに、生徒一人一人の個性それぞれに対応する教育をすることで、それぞれの思考を伸ばしたり広げたりすることができる。

(B)表現するためのICT活用

 二つ目についての初等中等教育について、同様に中川・苑氏によると、発表場面においても、単に資料を示すだけでなく、タブレット端末や電子黒板を活用すると、複数の資料をテンポよく示すことができたりする。また、タブレット端末を活用して新聞などを製作する作業を行うと「加工・修正が可能である」などの点が挙げられる(中川・苑, 2017, pp.34-35)と述べている。確かに、考えを表現するためにもICTはよく使われる。例えば、大学などの高等教育機関においても、自身の考えを発表する際にpowerpointなどのプレゼンテーションファイルを用いる、などをすでに行っている。これを「個性を大切にする教育」面でとらえれば、多くの情報から取捨選択できる点が挙げられるだろう。例えば、先ほど言ったようなプレゼンテーションは、その点が強いものであると言える。上で述べたように、プレゼンテーションでは複数の資料をテンポよく示すことができる。これは、プレゼンテーションの資料を製作するときに、インターネット、電子書籍等の数多のメディアからの資料を享受することができ、それらの情報から個人で大切だと思った情報を取捨選択し、一人一人違うものを作ることができることから、その資料に個性が現れてくる。また、発表することにより、それぞれの個性の多様性を生徒間で認めることができ、教員はそれをもとに新たな個性を発見できたりする。

 

3.ICTを使うことによる教育上の問題点と改善方法

 これまで利点を述べてきたのだが、現代のICTを使うには、それに対して問題点も生じてくる。よって、この章ではその問題点を提起したうえで、それに対しての改善点を述べていく。

 一つ目の問題は、ICTを使うための校内環境の整備である。最近は、昔と比べて安価になったとはいえ、情報端末は精密機械であるために未だ高価である。よって、生徒一人一人に情報端末を配布するとなると、コスト面で相当な負担となってしまう。しかも、情報端末を購入するだけではなく、校内のネット整備、端末の充電器の設置、専用のアプリケーションの整備など、するべきことが多い。その問題の改善策については、費用・コスト面では教員が率先してICTを活用した授業を展開していくことで、地方自治体にアピールしていき、次に端末の整備面で言えばネット整備業者等と綿密に検討を続けていき、学校間でのやりとりを増やすことで問題の解決を図ることが求められる。また、教員の年齢などを考慮すると未だネット環境に慣れていないことも考えられるため、そのようなICTの活用等に関する教員研修などの拡充が求められる。

 二つ目は、個性を大切にしすぎることへの弊害である。そもそも、教育とは個性を大切にするだけではなく、社会性を教えることも入っているはずである。個性というと、個人をイメージしがちであり、それは集団行動が例に挙げられる社会性とは真反対のものである。よって、個性を大切にしすぎるとその対極にある社会性は身につかない。例えば、ICTによる個性を大切にする教育の一環で生徒が個人で学びをする時がある。それは、個人という空間では習熟度別・個性に応じた教育が提供されているわけだが、その個人から離れて教室という空間でそれを考えると、それはただの自主学習であり、教員はその空間において意味を為さない。また、最近では平成28年度の内閣府の調査によると、青少年の80.2%がスマートフォンなどの情報端末でインターネットを利用しているのだが、まだ情報倫理について備わっていない学生が多い。そこからネットいじめなどの生徒の個性を生徒間で叩くような問題が、現在進行形で起こっているため、ICTによる情報端末の使い方にも未だ最新の注意を払わなければならない。それらの個人を大切にすることへの改善案であるが、やはり情報端末に頼らない授業形態を残していくのが有効な手段であると考える。理由として、情報端末に頼らない授業形態のみが持つ利点が存在するからだ。今まで言った通り、情報端末を使いすぎると様々な障害が起こってくることは述べたが、情報端末に頼らない授業形態を展開していくことで、顔と顔を合わせたコミュニケーションをとれたり、集団として行動したりすることで社会性を手に入れることができる。また教員側でも、確かに情報端末による意見の集約も必要だが、やはり教員は現場主義であり、生徒の表情や行動を観察する授業が求められる。

 

4.まとめ

 教員とは、「反省的実践家である」と言われている。なぜなら、教員は実践経験を通じて常に学び続ける姿勢が求められるからだ。ここから、反省的実践家としてのキャリアを積んでいくには、前に述べた通り、教員は生徒の個性を育てることと生徒の社会性を育てることの2つが同時に遂行されることが必要であり、それらは生徒との対話などを通じた実践的な経験によって行われるべきものである。そして「個性を大切にする教育」としてICTを利用することを述べたが、教育者は、これらの技術を利用するために、まずは情報倫理をはじめとした情報端末の扱い方を明確に理解し、その活用方法について理解するべきである。そして、ICTと今までの情報端末に依らない教育をアクティブ・ラーニングに昇華させた、教員自身も機械に依らずに実践経験を積めるような教育として組み合わせることで、個性を大切にし、生徒が主体的に取り組み、社会性を手に入れられる教育形態が実現するだろう。

 

5.参考文献

・中川一史・苑復傑(2017)『教育のためのICT活用』 放送大学教育振興会

内閣府(2017) 『平成28年度青少年のインターネット利用環境実態調査 調査結果(速報)』

閲覧日:2018年7月11日

http://www8.cao.go.jp/youth/youth-harm/chousa/h28/net-jittai/pdf/sokuhou.pdf

レポートを書いた記録[1年前期,教育学概論]

 不定期で上げていく、自分が実際にに大学に提出したレポートを晒していくシリーズ。

 第1弾は、2018年度前期「教育学概論」の最終レポートをあげてみようと思います。

 

問題 現代において、教員に求められる資質は何か。
すべての教員、自分が最も志望している校種に分けて論ぜよ。
文字数制限:なし かかった時間:文献含めて5時間程度?  
評定:S(秀)

 

時代に適応する教員の資質

 

1.はじめに  

 近年では、子供や大人を取り巻く環境が昔よりはるかに急速に変化している。そして、その影響に伴い子供の精神の不安定化など、様々な問題が起こっている。では、その急速な変化に適応していくために、私たちにはどのような資質が求められ、それをどう生徒たちに教育していくのか。よって、本レポートでは、すべての教員や私の今志望している高校教員について必要である資質能力を述べたのちに、それらの能力の獲得に向けてすべき行動を考察していくことで、教育界、または全体の将来的な展望を考えていくことにする。

 

2.すべての教員に必要であると考えられる資質能力

 私が考える、すべての教員にとって必要であると考えられる資質能力は、様々な意見を吸収でき、個人の多様性を認められる能力だと考える。その理由として、多様性を認められる能力を持つ教員は、生徒個人の発育に大きい意味をもたらすからだ。様々な意見というものは、教員の教育観に同意する考えと反する考えが混在することであり、まずは教員がその意見を好き嫌いせず受け入れることで、まず教員が生徒の個性を明確に判断し、多様性を受け入れることができる。 もし、教員が生徒に個人の教育観を押し付ける行為をした場合は、生徒に悪影響を及ぼす。なぜなら、生徒が教育観に則った生徒でしか育たなくなるからだ。富田氏によると、「児童の内面に配慮することなく、教員の思う行動・表現のみに着目した評価を行うのは、児童の実態への間違った評価を生む危険性だけでなく、教員の思いに合わせようとする役割を児童に認識させる危険性を有する行為である」(富田, 2013, p.109)と述べているように、児童側からしたら個性を成長できないどころか、先生の教育観に沿う行動のみをしようとしてしまうため、個性のない人間となってしまう。 また、多様性を受け入れられる教員は生徒の個性を育てることができる。たしかに、学校は集団生活の場であり、これから出る社会にでる人材として生徒指導をはじめとした教育は必要である。しかし、将来の社会において必要となるのは個性ではないだろうか。現在の就職活動では、リクルートスーツに身を包んだ若者たちが就職市場を右往左往する「没個性」の時代だと言われる。しかし、これからの教育業界では、主体的・対話的な学びを促すために行われる大学入学共通テストをはじめ、今までの「没個性」時代に一矢報いる改革が現在行われている。よって、個人がその人の個性を存分に発揮して就職し、そこで新たな開発等が行われることが見込まれる。 では、教員はその能力の獲得に向けてどのようなことをすればよいか。 まず、養成段階においては、多様性を認めるために、できるだけ多くの意見を自分の中に取り込むことが要求される。まだ教員になる前で自身の教育観が定まっていない人ならば、自分の教育観にとって良い・悪いがまだ判別できないため、好き嫌い、ということをせずに多くの意見を取り込むことができる。それを達成するには、身近な例で言えば、教育学概論や教職論の授業におけるリアクションペーパーの意見について耳を傾けることといわれるような、授業への積極的な参加が求められる。 また、教職生活後においては、教員の授業を他の教員に見てもらい、フィードバックをもらう研究授業に対して議論することが要求される。養成前と違い、自身の教育観が定まっている人が多いので、多くの意見を取り入れるには、研究授業などにおいて意見を貰う。それにより、気づかなかった周りの雰囲気や教員の教育観の押し付けについて気づくことができる。また、議論することによって今まで自分が間違っていたこと、または自分がこのまま続けていくべきことが明確に分かるうえ、教員と生徒という不平等な地位ではなく、教員間の対等な立場で議論することによって、より建設的な議論をすることができ、それをすることで教員の多様性について学ぶことができる。そこから、教員から生徒におろして考えることにより、生徒の多様性について学ぶことができる。

 

3.高校教員にとって、特に求められる資質能力

 私が考える高校教員にとって特に求められる資質能力は、様々な分野において専門性を持つ能力である。その理由として、高等学校にはある程度専門性を有する教育機関であるからである。宮木氏によると、「高等学校は中学校教育をベースに、高度な普通教育及び専門教育(職業教育)を施し、豊かな人間性や創造性、健やかな身体の育成に資することを目指す中等教育機関である」(宮木, 2013, p.121)と述べているように、たしかに高等学校は普通科専門学科などに分かれることから、誰でもわかるような、一般向けの授業を行わない。なので、それぞれの高校について中学校の学びから発展した専門的な教育が行われるのである。よって、その専門的な教育を行うには教員はその教える教科について専門的な教養を身に着け、それを元に教科指導を行わなければならない。 また、この教員の備え持つべき専門性は教科指導のみならず、生徒指導等の専門性も持たなければならない。理由として、高校生は心身が成長することにより、感情がより高度化するからだ。高校生は、急激な体の成長と心の成長に葛藤する思春期を超えたことにより、心身が成長したことによる悩みや抱える問題が高度化する。よって、高校教員はその問題を解決するためにも生徒の心理・心情について深い理解を求められる。例えば、1つの問題を抱えた生徒がいたとき、高校生活における人間関係においては、成熟した親との関係、同級生や上級生など上下関係、各教科とのそれぞれの教員との関係などの多くの人物と関わるので、小学生や中学生よりかは人間関係などが複雑になり、問題解決がより困難になる。そこで高校教員はカウンセリングなどの行動によって冷静に物事を判断することが求められる。 また、キャリア教育についても、教員は同様により高度な専門性を有していなければならない。中学校から高等学校の進学率よりも、高等学校から大学の進学率が低いことから、なんとなく高校に進んだ生徒においても、今までで一番大きな選択を迫られると考えられる。そこにおいて教員はキャリアの多様性についての専門知識を高め、生徒一人一人に合う適切な進路を提案していかなければならない。実際、高校生向けの大学進学情報は充実しているが、それ以外の進路の情報については希薄である。よって、生徒がまず進路先について一番に頼るのは、担任をはじめた教員たちである。その点で教員は生徒の人生を決めるという点で大きな責任を持つ。であるから、その大きな責任を受け止めるためにも、キャリア教育についての専門性を深めていかなければならない。 では、その専門性を獲得するためにどうすればよいのか考える。 まず、養成段階においては大学の学問をしっかり学び、習得することが求められる。なぜなら、勉学を通じて、高校から大学や社会とのつながりを意識することが求められるからだ。例えば、現状の大学の入試の問題でもそこの大学の学びにつながるような入試問題が製作されていて、当然ながら大学の学問は高校での知識を前提としている。よって、高校の学びを教える上で、教員は大学などの高等教育機関とのつながりを自ら学び、教育現場で伝えることで生徒に高校で学ぶ意義を持たせ、意欲を沸かせることができる。また、専門学校で職業教育をする際にも、将来の実用性においての見通しを示すことができ、同様に生徒の学習意欲を湧かせることができる。 また、教職生活後については、教員は常に学び続ける姿勢が求められる。なぜなら、教育は常に変化し続けるものであり、特に専門性を有する教員にとっては最新の知識を取り入れる必要があるからだ。特に、理系学問については常に新発明、新しい見解が示される。それについて教員はその新しい見解を反映することにより、学校という閉ざされた社会の中でも、その空間に新しい風を常に吹き込むことができる。例えば、鎌倉時代が始まった年について私たちは1192年だと習ったが、新しい見解により1185年となった。これも、最新の見解により改定されたものであり、教育が常に変化し続けていることを示している。これによって、生徒は新しい知識を得られて既存の知識にとらわれない学習ができ、より新しい学びをしようと意欲的に学習できる。

 

4.まとめ

 私は、すべての教員にとって必要であると考えられる資質能力として、様々な意見を吸収でき、個人の多様性を認められる能力とし、高校教員にとって必要である資質能力として、様々な分野において専門性を持つ能力として説明してきた。どちらの考えも、個人の多様性が望める社会、生徒の学習において見通しが立てられる社会などの将来的な展望を見通した上での意見である。冒頭に述べた通り、社会は、刻々と姿を変え続けている。よって、私は変わりゆく社会に適応した、未来を見通した教育者になりたいと考えた。

 

5.参考文献

・伊藤良高・中谷彪(2013)『教育と教師のフロンティア』晃洋書房

文部科学省 (2017)『大学入学共通テストについて』 確認日時:2018/07/12 http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/koudai/detail/1397733.htm