理数男子のつぶやき

某大学に通っている理数男子が語ったり語らなかったり。ブログはあくまで個人の未熟な発言からできているのであしからず。

レポートを書いた記録[1年前期,スポーツ考現学]

 不定期で上げていく、自分が実際にに大学に提出したレポートを晒していくシリーズ。

 第3弾は、2018年度前期「スポーツ考源学」の最終レポートをあげてみようと思います。

 

問題 以下のテーマ(略)から、4つを選び記述せよ。
文字数制限:A43枚程度 かかった時間:4時間くらい
評定:A(優)

 

テーマ7  『スポーツ観戦学』 (世界思想社) 第7章「スポーツ中継のなかの『物語』」を読んでの、読後コメント

 この章では、橋本氏は「テレビ観戦の楽しみとはメディア側が出来事を取捨選択し、現実を再構成した『物語』を味わう楽しみとも言える」(橋本, 2010, p.163)と述べているように、テレビでのスポーツ中継には、実際に会場に足を運んで試合を見ることとは異なる、「物語」を持っているということを述べている。また、その「物語」とは「登場人物の変化とともに、時間的経過と因果関係が必要不可欠」(橋本, 2010, p173)と述べている。

 ここを読んで、私は最近の技術革新などによってこのような「スポーツの物語化」が進んでしまったのだと考えた。なぜなら、昔よりも現場で試合を観戦しない人が持っている情報量が増大したからである。

 日本初のスポーツ中継は昭和2年の第13回全国中等学校優勝野球大会のラジオ中継だった。その当時の情報量としては中継がラジオ放送だったために、選手がどのような動きをしているかなどがわかりにくく、交通網が未発達であったために、試合の結果などを書いた紙媒体などでしか情報を得ることができなかったため、かなり少なかった。しかし、昭和26年には日本初のテレビ放送によるスポーツ中継が行われ、人々の情報量を格段と増やした。テレビ放送は、ラジオ放送と違って耳と目という二つの感覚器官を使うことで、人々は選手の顔を見て、実際の試合風景を鮮明に見ることができるという点などについて多くの情報を与えた。現在においての例を挙げると、テレビのデータ放送が挙げられる。これは、野球のテレビ中継の最中においてボタンを1つ押すだけで選手の打順や守備位置はもちろん、選手データやチームの情報までを知ることができる仕組みである。このことからも、近年の情報技術の発達によって試合を見ることがなくても受け取ることができる情報量が格段に増えたことがわかる。

 また、多くの情報があることによって、スポーツの物語化が進んでしまった。橋本氏は、スポーツ実況において「過去」「現在」「未来」の3つの時間軸を行きつ戻りつしながら「物語」が構成される(橋本, 2010, p175)と述べているが、その実況における「過去」の面においては実況者や視聴者の知識を使い、試合の「未来」を推測することで「物語」が形成されていく。たしかに、箱根駅伝におけるテレビ放送では昔の映像や選手の経歴情報などの膨大に蓄積された情報から実況などを通じて「膨大な物語」を作り出すことによって、何時間も続く駅伝という種目を華やかに見せ、視聴者を飽きさせることがないような仕組みになっている。これは、メディアがスポーツを視聴者たちにわかりやすくさせようとしたばかりに、近年の情報技術により、映像・画像・音声などの媒体を用いて未来を予想することにより、「物語」を生成してしまった。

 

テーマ2 スタジアムの第1~第5世代におけるそれぞれの特徴

 第1世代スタジアムとは、観客収容能力に力点を置いたが、施設のクオリティや、快適性への関心は最小限に抑えた巨大(楕)円形競技場のことである。このスタジアムがあった時代では、通信手段などが未発達であったため、スポーツ見るには、そこに行ってスポーツを見るしかなかった。よって、第一世代では、スポーツに関心がある人は全てスタジアムに行くため、できるだけ観戦料を徴収しようとした設営者は、主に観客収容能力に重点をおいた。これは、観客としては施設内が暑かったり寒かったりしてもそこで観戦するしか選択肢がないため、施設の構造について文句を言うことができずに、問題視されることはなかった。

 第2世代スタジアムとは、テレビ放送が開始されたことから観客減少を食い止めるために、第1世代と違って施設の快適性や、飲食用の売店設備の向上によって作られたスタジアムである。第一世代スタジアムでは、スポーツを見る際にはそこでしか見ることしか選択肢がなかったが、テレビ放送の普及によってスタジアムよりより快適な自宅等の場所において試合を見るようになった。そこで、飲食の売店設備の向上などの快適性や、大きいスクリーンなどを設置することで、そのスタジアムにしかない「特殊性」を高め、テレビ放送に移った観客を取り戻していった。

 第3世代スタジアムとは、第2世代よりも施設の快適性を高め、スタジアムに来る家族全員に魅力的であるようなスタジアムである。当初は、スポーツとは男の文化であった。例えば、古代ギリシャなどの古代オリンピックでは、選手は男性のみの上、既婚の女性は観客席でさえ立ち入ることができない女人禁制のスポーツの祭典であり、相撲でも男性専用のスポーツだという固定観念を持つものも多い。このことからも、スポーツとは、男の文化であることがわかる。また、観客収容能力に重きをおいた第1世代と比べ、スポーツが大衆化したことから観客が収容しきれなくなり、テラス席を廃止してすべて座席にするなどの処置をせざるをえなくなった。

 第4世代スタジアムとは、メディアと企業などとのスポンサーシップを意識したスタジアムである。スタジアムの建設者は、第2、3とスタジアムの改修をしていったのだが、物価の高騰などにより改修する資金もないため、資金難に追われた。そこで、建設者はスポンサーなどを介して資金を調達するようになった。それによって、巨大な広告看板などが増え、スクリーンなどにも技術革新によるCMの挿入などをするようになった。また、そこにメディアなども入り、テレビ写りや写真映えが良い照明や聴覚関連設備が整備されるようになった。

 第5世代スタジアムとは、新しい都市の創造や既存都市の再活性化を見据えた、第4世代までと違う街中にある機能重視型スタジアムである。今までのスタジアムでは、土地の関係上、都市の郊外に設置されていることが多かった。そこにおいて、試合がないときにはスタジアムは閑散としていた。そこで、試合がないときでもそのスタジアムが有効利用できるように、衣・食・住機能を兼ねそろえた施設やレジャー施設を併設することで、スタジアムの有効活用ができ、町おこしなどの地域全体を挙げた催し事などから地域貢献をすることができるようになった。

 

テーマ3 スポーツ観戦空間のパースペクティヴ 

 私は、スタジアムをはじめとしたスポーツ観戦空間は、一種の「聖地」であると考えた。その理由として、そのスポーツ観戦空間は一般的な施設と違い、「聖なるもの」としてみることができるからだ。

 この意見に対し、橋本氏は「スポーツは根源的に宗教的な深い自然衝動が動作となって表出したものであり、スポーツ観戦にも自由の衝動、完璧な儀式への敬意、象徴的意味への強い関心、完全なるものへの熱望が存在し、それを表現する様々な方法がある。」(橋本, 2010, p16)と述べているように、スポーツ観戦には、宗教的な「衝動」、「敬意」、「熱望」という側面から宗教的な側面があることがわかる。よって、これらの側面からスポーツ観戦空間が聖なるものであることを考察していく。

 宗教的な「敬意」という側面については、スポーツの神聖な力から考えることができる。スポーツというのは決められた空間の中において、決められたルールのもとで行われるものである。言い換えれば、スポーツとは、その空間内においてなら、宗教の規則が政府や社会の規則を超越してしまうように、スポーツのルールが社会のルールを超越して行動を起こすことができる。例えばプロレスでは、試合中のリングの中では普通に人を殴り、人を痛めたりするつけることができる。これは現在の社会では到底受け入られないものであるが、その会場では、美しいもの、素晴らしいものだと社会とは真逆の評価が得られる。これは、社会のルールが通用しないスポーツ空間においてのみにおいて適応されるものであり、一つの宗教空間と考えることができる。

 宗教的な「衝動」や「熱望」には、スタジアムというスポーツ観戦空間の神聖さから考えることができる。スタジアムという神聖なる空間は、人にその空間の外において影響を及ぼす。例えば、スポーツを見に行こうとする観客は交通機関などを使ってスタジアムに向かうのだが、街の通りにある垂れ幕、チーム色でラッピングされた電車やバスなどの乗り物、同じユニフォームを着た通行人などを目にすることにより、未だスタジアムにつかなくても気分を高揚させることができる。そこから、私はスタジアムに向かっているのだという情緒と場所が結びつけられた愛が湧いてくる。その空間の外面に対して、スタジアムの内面に入った時には、より神聖さをうかがうことができる。その周りにいる同じ信条を共にする仲間たちの対話、そのチームの応援歌やコールの聴覚的な刺激、その場でしか食べることのできない弁当などの食べ物や飲み物の味などの味覚的な刺激をはじめ、人間の五感全てが刺激される。そして、五感が刺激されることにより、人は強い衝動を覚える。そこから、人はスポーツ観戦空間への熱望が湧き、スポーツ観戦空間という完成した空間への宗教的な帰属意識が生まれる。

 このことから、スポーツ観戦空間とは神聖なものであり、そこでは人々はその空間に対し、スタジアムの内外に散りばめられた様々なアプローチから熱中し、敬愛する。そして、将来的には聖地化したスタジアムがその地域においてのシンボルとなり、スポーツ文化がより発展した将来になるのであろう。

 

テーマ4 文化としてのスポーツの必要性と重要性

 私は、文化としてのスポーツについては人々の関係をよりよくするために必要であると考える。なぜなら、人はスポーツに触れることで人と接する機会を持つからだ。

 まず、文部科学省が出しているスポーツ基本法の前文では、スポーツに対して「スポーツは、次代を担う青少年の体力を向上させるとともに、他者を尊重しこれと協同する精神、公正さと規律を尊ぶ態度や克己心を培い、実践的な思考力や判断力を育む等人格の形成に大きな影響を及ぼすものである。」(文部科学省, 2013, p.1)と定義しているように、スポーツには他者を尊重し、共同活動をしようとする精神等を培うことができるものである。そこで、人間関係について「社会的・政治的な側面」と「生活的側面」について議論していく。

 まず、政治的な側面において、人間関係はよくすることができる。スポーツの世界に社会的な地位や身分が存在しない。スポーツを「見る」ことの視点の例では、古代オリンピックではオリンピックを行う間だけ戦争を休戦して各国でチームを選抜し、お互いが同じフィールドで対等に競い合うことができたことからも、たとえ各国が緊張関係であったとしてもその時だけ社会的地位を忘れて競技に臨めたことが挙げられる。また、スポーツを「見る」視点からも、2018年のロシアで開催されたW杯の開幕戦では、ロシアのプーチン大統領サウジアラビアのサルマン皇太子が同じ部屋で試合観戦をした。これは、両者が対等な立場でスポーツを観戦することにより、その場だけ社会的地位を忘れ、対等で友好的な人間関係を形成することができた例である。よって、政治的な側面についてはスポーツを介して他者を尊重し、人間間の緊張関係を和らげ、人間関係をよくすることができる。

 また、生活の側面からも人間関係をよりよくすることができる。スポーツの文化的機能として、「豊かな交流」という面については、スポーツというのは「する」、「見る」のどちらにおいても他者を介して行うことにより、人間関係を醸成することができる。「する」という面においては、人は試合や練習をする際に他社との交流を通じて、自分がうまい、下手だという自己を相対化してものを考えることができる。そこから、自己のアイデンティティを確立するとともに、相対化した視線を用いて他者を尊重することができる。また、「見る」という視点については、例えば同じチームを応援する際に、他社との会話を通じてそのチームや個人の魅力を伝えあうことで、他者の視点を知ることができて同じチームの応援団として共同し、人間関係を構築することができる。

 よって、このことから文化としてのスポーツは人間関係の構築や、自分自身の構築において必要性、または重要性があることがわかる。

 

参考文献:

・橋本純一(2010)『スポーツ観戦学』世界思想社

橋本一夫(1992)『日本スポーツ放送史』大修館書店

文部科学省(2013)『スポーツ基本法』 閲覧日時:2018年8月2日

URL:http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/kihonhou/attach/1307658.htm

 

レポートを書いた記録[1年前期,教職論]

 不定期で上げていく、自分が実際にに大学に提出したレポートを晒していくシリーズ。

 第2弾は、2018年度前期「教職論」の最終レポートをあげてみようと思います。

 

問題 「個性を大切にする教育」とはどのような教育か?
文字数制限:1000文字以上 かかった時間:6時間くらい
文献制限:1冊以上
評定:A(優)

 

ICTを利用した新しい教育

 

1.はじめに

私が考える「個性を大切にする教育」とは、現代のICTを使った教育である。その理由として、ICTには個人のそれぞれの個性を大切にし、それを伸ばしていける仕組みが多くあるからだ。よって、本レポートではまず、上記にある理由の中でもICTが持つ「個性を大切にし、伸ばしていける仕組み」について議論し、次にそれに対する問題点を提示し、問題点に対する改善点について議論したのち、すべての意見を総括した上で現代のICTを利用した教育がどうあるべきかについて考察をしていく。

 

2. ICTを利用することによる「個性を大切にする」ことの利点

 まず初めに、ICTを利用することによって「個性を大切にする」ことについてどのような利点があるかにおいて考察する。ICTの活用例として、小・中学校などの初等中等教育が挙げられる。中川・苑氏によると、このICTを使う教育について (A)思考を深め、広げるためのICT活用、(B)表現するためのICT活用、という2つの点について議論していた。(中川・苑, 2017, pp.33-36)よって、ここではこの2つの点について初等中等教育の使用例から、ICTと学校教育界全体ついてのかかわりについて考え、「個性を大切にすること」とどのようなかかわりがあるかについて考察する。

(A)思考を深め、広げるためのICT活用

一つ目の初等中等教育においての使用例として、中川・苑氏によると、個人学習に使える環境になると、デジタル教材を用いてそこに自身の考えを書き込んだりすることによって、これまでの紙のノート・ワークシートとは違うデジタルノートの活用ができること、意見整理などの場面でタブレット端末などを利用して資料の一部に書き込んだりできること等の児童生徒の考えを可視化するのに有効である(中川・苑, 2017, pp.34-35)と述べている。そこから考えると、今まででは、様々な教育の場で学習の到達度などを図る際は、テストやノートの確認など実体あるものに対して評価や分析を行っていた。その際に、教師は全て個々の分析をしたり、多くの情報処理をしたりする精神的労力などを費やした上、ノート等を運び、配布する肉体的労力を費やした。それに対して、ICTを利用した教育はタブレット等の軽量な情報端末を用いて、逐一教員などを含めた保護者が生徒の情報を素早く見ることができ、そこからAIなどが教員にとって本当に必要なデータを取捨選択し、それを教員に提供することで、迅速に教員がそれぞれに対応する教育方法・方針を提供することができる。そしてそれをもとに、生徒一人一人の個性それぞれに対応する教育をすることで、それぞれの思考を伸ばしたり広げたりすることができる。

(B)表現するためのICT活用

 二つ目についての初等中等教育について、同様に中川・苑氏によると、発表場面においても、単に資料を示すだけでなく、タブレット端末や電子黒板を活用すると、複数の資料をテンポよく示すことができたりする。また、タブレット端末を活用して新聞などを製作する作業を行うと「加工・修正が可能である」などの点が挙げられる(中川・苑, 2017, pp.34-35)と述べている。確かに、考えを表現するためにもICTはよく使われる。例えば、大学などの高等教育機関においても、自身の考えを発表する際にpowerpointなどのプレゼンテーションファイルを用いる、などをすでに行っている。これを「個性を大切にする教育」面でとらえれば、多くの情報から取捨選択できる点が挙げられるだろう。例えば、先ほど言ったようなプレゼンテーションは、その点が強いものであると言える。上で述べたように、プレゼンテーションでは複数の資料をテンポよく示すことができる。これは、プレゼンテーションの資料を製作するときに、インターネット、電子書籍等の数多のメディアからの資料を享受することができ、それらの情報から個人で大切だと思った情報を取捨選択し、一人一人違うものを作ることができることから、その資料に個性が現れてくる。また、発表することにより、それぞれの個性の多様性を生徒間で認めることができ、教員はそれをもとに新たな個性を発見できたりする。

 

3.ICTを使うことによる教育上の問題点と改善方法

 これまで利点を述べてきたのだが、現代のICTを使うには、それに対して問題点も生じてくる。よって、この章ではその問題点を提起したうえで、それに対しての改善点を述べていく。

 一つ目の問題は、ICTを使うための校内環境の整備である。最近は、昔と比べて安価になったとはいえ、情報端末は精密機械であるために未だ高価である。よって、生徒一人一人に情報端末を配布するとなると、コスト面で相当な負担となってしまう。しかも、情報端末を購入するだけではなく、校内のネット整備、端末の充電器の設置、専用のアプリケーションの整備など、するべきことが多い。その問題の改善策については、費用・コスト面では教員が率先してICTを活用した授業を展開していくことで、地方自治体にアピールしていき、次に端末の整備面で言えばネット整備業者等と綿密に検討を続けていき、学校間でのやりとりを増やすことで問題の解決を図ることが求められる。また、教員の年齢などを考慮すると未だネット環境に慣れていないことも考えられるため、そのようなICTの活用等に関する教員研修などの拡充が求められる。

 二つ目は、個性を大切にしすぎることへの弊害である。そもそも、教育とは個性を大切にするだけではなく、社会性を教えることも入っているはずである。個性というと、個人をイメージしがちであり、それは集団行動が例に挙げられる社会性とは真反対のものである。よって、個性を大切にしすぎるとその対極にある社会性は身につかない。例えば、ICTによる個性を大切にする教育の一環で生徒が個人で学びをする時がある。それは、個人という空間では習熟度別・個性に応じた教育が提供されているわけだが、その個人から離れて教室という空間でそれを考えると、それはただの自主学習であり、教員はその空間において意味を為さない。また、最近では平成28年度の内閣府の調査によると、青少年の80.2%がスマートフォンなどの情報端末でインターネットを利用しているのだが、まだ情報倫理について備わっていない学生が多い。そこからネットいじめなどの生徒の個性を生徒間で叩くような問題が、現在進行形で起こっているため、ICTによる情報端末の使い方にも未だ最新の注意を払わなければならない。それらの個人を大切にすることへの改善案であるが、やはり情報端末に頼らない授業形態を残していくのが有効な手段であると考える。理由として、情報端末に頼らない授業形態のみが持つ利点が存在するからだ。今まで言った通り、情報端末を使いすぎると様々な障害が起こってくることは述べたが、情報端末に頼らない授業形態を展開していくことで、顔と顔を合わせたコミュニケーションをとれたり、集団として行動したりすることで社会性を手に入れることができる。また教員側でも、確かに情報端末による意見の集約も必要だが、やはり教員は現場主義であり、生徒の表情や行動を観察する授業が求められる。

 

4.まとめ

 教員とは、「反省的実践家である」と言われている。なぜなら、教員は実践経験を通じて常に学び続ける姿勢が求められるからだ。ここから、反省的実践家としてのキャリアを積んでいくには、前に述べた通り、教員は生徒の個性を育てることと生徒の社会性を育てることの2つが同時に遂行されることが必要であり、それらは生徒との対話などを通じた実践的な経験によって行われるべきものである。そして「個性を大切にする教育」としてICTを利用することを述べたが、教育者は、これらの技術を利用するために、まずは情報倫理をはじめとした情報端末の扱い方を明確に理解し、その活用方法について理解するべきである。そして、ICTと今までの情報端末に依らない教育をアクティブ・ラーニングに昇華させた、教員自身も機械に依らずに実践経験を積めるような教育として組み合わせることで、個性を大切にし、生徒が主体的に取り組み、社会性を手に入れられる教育形態が実現するだろう。

 

5.参考文献

・中川一史・苑復傑(2017)『教育のためのICT活用』 放送大学教育振興会

内閣府(2017) 『平成28年度青少年のインターネット利用環境実態調査 調査結果(速報)』

閲覧日:2018年7月11日

http://www8.cao.go.jp/youth/youth-harm/chousa/h28/net-jittai/pdf/sokuhou.pdf

レポートを書いた記録[1年前期,教育学概論]

 不定期で上げていく、自分が実際にに大学に提出したレポートを晒していくシリーズ。

 第1弾は、2018年度前期「教育学概論」の最終レポートをあげてみようと思います。

 

問題 現代において、教員に求められる資質は何か。
すべての教員、自分が最も志望している校種に分けて論ぜよ。
文字数制限:なし かかった時間:文献含めて5時間程度?  
評定:S(秀)

 

時代に適応する教員の資質

 

1.はじめに  

 近年では、子供や大人を取り巻く環境が昔よりはるかに急速に変化している。そして、その影響に伴い子供の精神の不安定化など、様々な問題が起こっている。では、その急速な変化に適応していくために、私たちにはどのような資質が求められ、それをどう生徒たちに教育していくのか。よって、本レポートでは、すべての教員や私の今志望している高校教員について必要である資質能力を述べたのちに、それらの能力の獲得に向けてすべき行動を考察していくことで、教育界、または全体の将来的な展望を考えていくことにする。

 

2.すべての教員に必要であると考えられる資質能力

 私が考える、すべての教員にとって必要であると考えられる資質能力は、様々な意見を吸収でき、個人の多様性を認められる能力だと考える。その理由として、多様性を認められる能力を持つ教員は、生徒個人の発育に大きい意味をもたらすからだ。様々な意見というものは、教員の教育観に同意する考えと反する考えが混在することであり、まずは教員がその意見を好き嫌いせず受け入れることで、まず教員が生徒の個性を明確に判断し、多様性を受け入れることができる。 もし、教員が生徒に個人の教育観を押し付ける行為をした場合は、生徒に悪影響を及ぼす。なぜなら、生徒が教育観に則った生徒でしか育たなくなるからだ。富田氏によると、「児童の内面に配慮することなく、教員の思う行動・表現のみに着目した評価を行うのは、児童の実態への間違った評価を生む危険性だけでなく、教員の思いに合わせようとする役割を児童に認識させる危険性を有する行為である」(富田, 2013, p.109)と述べているように、児童側からしたら個性を成長できないどころか、先生の教育観に沿う行動のみをしようとしてしまうため、個性のない人間となってしまう。 また、多様性を受け入れられる教員は生徒の個性を育てることができる。たしかに、学校は集団生活の場であり、これから出る社会にでる人材として生徒指導をはじめとした教育は必要である。しかし、将来の社会において必要となるのは個性ではないだろうか。現在の就職活動では、リクルートスーツに身を包んだ若者たちが就職市場を右往左往する「没個性」の時代だと言われる。しかし、これからの教育業界では、主体的・対話的な学びを促すために行われる大学入学共通テストをはじめ、今までの「没個性」時代に一矢報いる改革が現在行われている。よって、個人がその人の個性を存分に発揮して就職し、そこで新たな開発等が行われることが見込まれる。 では、教員はその能力の獲得に向けてどのようなことをすればよいか。 まず、養成段階においては、多様性を認めるために、できるだけ多くの意見を自分の中に取り込むことが要求される。まだ教員になる前で自身の教育観が定まっていない人ならば、自分の教育観にとって良い・悪いがまだ判別できないため、好き嫌い、ということをせずに多くの意見を取り込むことができる。それを達成するには、身近な例で言えば、教育学概論や教職論の授業におけるリアクションペーパーの意見について耳を傾けることといわれるような、授業への積極的な参加が求められる。 また、教職生活後においては、教員の授業を他の教員に見てもらい、フィードバックをもらう研究授業に対して議論することが要求される。養成前と違い、自身の教育観が定まっている人が多いので、多くの意見を取り入れるには、研究授業などにおいて意見を貰う。それにより、気づかなかった周りの雰囲気や教員の教育観の押し付けについて気づくことができる。また、議論することによって今まで自分が間違っていたこと、または自分がこのまま続けていくべきことが明確に分かるうえ、教員と生徒という不平等な地位ではなく、教員間の対等な立場で議論することによって、より建設的な議論をすることができ、それをすることで教員の多様性について学ぶことができる。そこから、教員から生徒におろして考えることにより、生徒の多様性について学ぶことができる。

 

3.高校教員にとって、特に求められる資質能力

 私が考える高校教員にとって特に求められる資質能力は、様々な分野において専門性を持つ能力である。その理由として、高等学校にはある程度専門性を有する教育機関であるからである。宮木氏によると、「高等学校は中学校教育をベースに、高度な普通教育及び専門教育(職業教育)を施し、豊かな人間性や創造性、健やかな身体の育成に資することを目指す中等教育機関である」(宮木, 2013, p.121)と述べているように、たしかに高等学校は普通科専門学科などに分かれることから、誰でもわかるような、一般向けの授業を行わない。なので、それぞれの高校について中学校の学びから発展した専門的な教育が行われるのである。よって、その専門的な教育を行うには教員はその教える教科について専門的な教養を身に着け、それを元に教科指導を行わなければならない。 また、この教員の備え持つべき専門性は教科指導のみならず、生徒指導等の専門性も持たなければならない。理由として、高校生は心身が成長することにより、感情がより高度化するからだ。高校生は、急激な体の成長と心の成長に葛藤する思春期を超えたことにより、心身が成長したことによる悩みや抱える問題が高度化する。よって、高校教員はその問題を解決するためにも生徒の心理・心情について深い理解を求められる。例えば、1つの問題を抱えた生徒がいたとき、高校生活における人間関係においては、成熟した親との関係、同級生や上級生など上下関係、各教科とのそれぞれの教員との関係などの多くの人物と関わるので、小学生や中学生よりかは人間関係などが複雑になり、問題解決がより困難になる。そこで高校教員はカウンセリングなどの行動によって冷静に物事を判断することが求められる。 また、キャリア教育についても、教員は同様により高度な専門性を有していなければならない。中学校から高等学校の進学率よりも、高等学校から大学の進学率が低いことから、なんとなく高校に進んだ生徒においても、今までで一番大きな選択を迫られると考えられる。そこにおいて教員はキャリアの多様性についての専門知識を高め、生徒一人一人に合う適切な進路を提案していかなければならない。実際、高校生向けの大学進学情報は充実しているが、それ以外の進路の情報については希薄である。よって、生徒がまず進路先について一番に頼るのは、担任をはじめた教員たちである。その点で教員は生徒の人生を決めるという点で大きな責任を持つ。であるから、その大きな責任を受け止めるためにも、キャリア教育についての専門性を深めていかなければならない。 では、その専門性を獲得するためにどうすればよいのか考える。 まず、養成段階においては大学の学問をしっかり学び、習得することが求められる。なぜなら、勉学を通じて、高校から大学や社会とのつながりを意識することが求められるからだ。例えば、現状の大学の入試の問題でもそこの大学の学びにつながるような入試問題が製作されていて、当然ながら大学の学問は高校での知識を前提としている。よって、高校の学びを教える上で、教員は大学などの高等教育機関とのつながりを自ら学び、教育現場で伝えることで生徒に高校で学ぶ意義を持たせ、意欲を沸かせることができる。また、専門学校で職業教育をする際にも、将来の実用性においての見通しを示すことができ、同様に生徒の学習意欲を湧かせることができる。 また、教職生活後については、教員は常に学び続ける姿勢が求められる。なぜなら、教育は常に変化し続けるものであり、特に専門性を有する教員にとっては最新の知識を取り入れる必要があるからだ。特に、理系学問については常に新発明、新しい見解が示される。それについて教員はその新しい見解を反映することにより、学校という閉ざされた社会の中でも、その空間に新しい風を常に吹き込むことができる。例えば、鎌倉時代が始まった年について私たちは1192年だと習ったが、新しい見解により1185年となった。これも、最新の見解により改定されたものであり、教育が常に変化し続けていることを示している。これによって、生徒は新しい知識を得られて既存の知識にとらわれない学習ができ、より新しい学びをしようと意欲的に学習できる。

 

4.まとめ

 私は、すべての教員にとって必要であると考えられる資質能力として、様々な意見を吸収でき、個人の多様性を認められる能力とし、高校教員にとって必要である資質能力として、様々な分野において専門性を持つ能力として説明してきた。どちらの考えも、個人の多様性が望める社会、生徒の学習において見通しが立てられる社会などの将来的な展望を見通した上での意見である。冒頭に述べた通り、社会は、刻々と姿を変え続けている。よって、私は変わりゆく社会に適応した、未来を見通した教育者になりたいと考えた。

 

5.参考文献

・伊藤良高・中谷彪(2013)『教育と教師のフロンティア』晃洋書房

文部科学省 (2017)『大学入学共通テストについて』 確認日時:2018/07/12 http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/koudai/detail/1397733.htm

vs 司書教諭講習(in放送大学) [#4 添削指導]

 8月頭に行われた地獄のテスト週間が終わり…

 

 やっっっっっっっっと放送大学の通信指導課題に手を付ける季節がやってきました。

 …といっても超ドタバタ日程な上、講義をほとんど聞いていないなかでの通信指導…果たしてどうなったかを適当に書こうかと思います。

まず、通信指導ってなんぞや?

 通信指導課題とは、「講義を聞いた直後に出さなければいけない課題」である。

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通信指導課題

 大学生からのイメージとしては中間レポート的なものを想像するだろうか。

 

 この単位の出方としては

 

 「講義を聞く」→「通信指導課題を出す」→「左記に合格する」

  →「単位認定課題を出す」→「左記に合格する」

 

 という段階を踏まなければなりません。

 つまり、この通信指導を出して、合格するのが必須条件。

 

 ちなみに、通信指導の種類は2種類。

 

 ・「択一式」

  該当教科:情報メディアの活用('16)、学校経営と学校図書館('17)

  …その名の通り、4~5個の選択肢から選び回答する方式。

  課題は教材と一緒に送られるので、カンニングをしながら回答ができる。

  なお、この択一式の問題に限り郵送ではなくオンラインでの提出が可能。

   (つまり提出期限ぎりぎりまで粘れるということ,実際ぎりぎりまで粘った)

 

  ・「記述式」

  該当教科:学校図書館メディアの構成('16)、学習指導と学校図書館('16)、読書と豊かな人間性('20)

 …その名の通り、レポート形式で回答する科目。文字数は600~900文字くらい。

  問題の条件はきつめなので、下手なことはかけない。

 

いざ、通信指導課題をやろう

通信指導をやるためになにをやったのか? 

さてさて、通信指導課題をやろう…と思ったのが8/8(土)。

 そこまででレポートのために行えたことは

 ・教科書、講義はほとんど見ていない

 ・参考図書を8冊ほど借りる

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 …というくらいでしょうか。

 

本を借りる意義としては

・実践的な内容が本で読める

 教科書とかだと基本的には「理論的」なことが書かれているのだが、

 基本的に通信指導とか単位認定課題は「実践的」なことが要求される。

 よって、図書館などで借りる実践的な内容に触れる本は

 レポートを書く大きな手助けになるだろう。

 

・単に通信指導課題に使う

 2020年度「学校図書館メディアの構成」の通信指導とか単位認定課題においては

 「参考文献2冊以上」をレポートに記載することを要求している。

 よって、参考文献となるような資料を借りないとまずレポートが書けないのである。

 

 そんな感じの前提です…

 注意として、以下に書かれるのは通信指導における感想を書いただけです。

 正直、講義は追い付いていないのでまた今度、ってことで…

その1 「学校経営と学校図書館('17)」

設問形式:択一式

難易度:☆

  正直、この課題の中で一番難易度が低かったと思う。理由としては問題の形式が大抵

 「講義第〇〇回の中で、正しいものを選びなさい」という形式であったため。

 正直、助かった…という感想です。

 

その2 「学校図書館メディアの構成('16)」

設問形式:記述式

難易度:☆☆☆

 参考文献ありの中でのレポート。

 おそらく記述式の中での難易度は一番低い印象を受けました。

 理由としては「条件がガッチガチなので、むしろ書きやすい」

       「内容が割と教科書に書いてあった」という感じでしょうか。

 あとは、参考文献パワーもあるのかなぁという印象でした。

 その3 「学習指導と学校図書館('16)」

設問形式:記述式

難易度:☆☆☆☆☆

 正直一番難易度が高かったレポートかと思います。

 理由としては「授業をしたことがないくせに、授業案を書かないといけないから」

 これに尽きると思います。…というのも学習指導の講義を聞くわけだから、

 学校図書館を巻き込んだ授業展開を書けないと単位はあげられない、

 ごもっともです。

 これについては現職教員の先生がたとかはどうするんだろうなぁ、

 書きやすいんだろうなぁとか想いを馳せたりしました。

 しかも、この講義のレポートは2本だて。物量的にも普通にきつい…

 

その4 「読書と豊かな人間性('20)」

 設問形式:記述式

 難易度:☆☆☆☆

 正直上記2つに気を取られていて記憶がない…

 1日中考えていた記憶はあったので☆4つです。

 

その5 「情報メディアの活用('16)」

 設問形式:択一式

 難易度:☆☆

 その1で述べられていた択一式の問題とは違い、

 基本的に「講義で出たかそんなの!?」といったような問題でした。

 この講義の問題で、数問は情報系(公開鍵暗号方式とか)の問題があったので、

 基本情報を目指している私としては割と解けた問題であった気がしました。

 しかし、横文字などが多かったりしたので択一としては普通に難しかったです。

 

感想

 そんな感じで、本当に講義を聞いているのか定かではない状態でレポートを書き、

 提出締め切り前日の朝に速達で出しました。

 そして、しっかり期限内に届いて受理されたようです。助かった…

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 これが果たしてどう帰ってくるのかが見ものです…

 さすがに、単位認定課題についてはテストとかくそもないので余裕をもって

 提出をしていきたいと感じました。てか、しろ…

 

 そんな感じで、単位認定課題編に続きます。

「クァンダ」は数学教育にどうもたらすか?

 数学の問題を解く際に、「わからない」問題があったとする。

 その時、貴方はどのようなアプローチをするだろうか?

 

 一番手っ取り早いのは問題の解答を見るという行為である。

 そこには問題の解答が書いてあるので、わからない問題に対してのアプローチを与えてくれるだろう。また、もし解説などが書いてあったら「こう筋道を示してくれるのか!」と納得することができるだろう。

 

 しかし、もし解答がなかった場合はどうするだろうか。

 その場合、自力でどうにか解ければいいに越したことはないのだが、普通の人たちは解答をどこからか持ってくるであろう。例えば、他人や先生に聞くということがあるし、自分の検索技術を駆使して、類題を他の問題集から引っ張ってきてそれを模倣することもあるだろう。

 しかし、「他人に聞く」「問題の解答を別の本から引っ張り出してくる」と言うのももう過去の話になりつつある。

 その理由としては、ネット技術の進展によりインターネットで検索すれば問題が出てくるようになったので、自分から他人へ、自分から図書館や本に行きつく手間が省けるようになったからである。

 

現代における数学に関する問題の解決法

 ケース1.計算問題

 数学の問題としてまず一番に上げられるのは計算問題であろう。

 例えば、簡単なところで言えば「足し算」「引き算」「掛け算」「割り算」などから、難しく言えば「方程式の計算」「微分積分」まで多種多様である。

 その時、使うソフトとしては、以下のものが主流ではないだろうか。

 

 ①電卓

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画像はGoogle検索で出てきたもの。

 やはり、単純な計算をする際には電卓は欠かせない。

実際、自分も「四則演算の能力が主として問われていない」というのを条件に*1よく使う。

 

 ②Photomath

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 これは最近(といっても2年前?)出てきたアプリで、カメラで写した数式を文字に書き起こして、その数式の解答と途中式を出してくれるというアプリである。

 しかもこのアプリは無料なのである。恐ろしい…

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数式を画像認識し、答えを出している

引用:https://www.youtube.com/watch?v=T41t8zfjVng

 カメラでうつすだけで解答を出してくれる上、解法を出してくれるので計算をしたくない人にとってはとっておきのアプリである。しかし、このアプリは発展途上でありかなり難しい高2~レベルの計算になると解答が出てこない場合もある。

 

  ③Wolfam Alpha

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 ネット上で出てくる「計算知能」というやつである。

 これに関しては、画像認識はできないのだが基本的にどんな数式を打ち込んでも答えを返してくれる優れものである。実際、大学生の計算レベルになるとこのサイトに計算式をぶちこむ人が出てきているらしい。

 なお、解答を出すことに関しては無料なのだが、解法や途中式を出すのについては有料コンテンツとなる

 

 正直言うと、現代において計算できるという技能は昔と比べればちやほやされなくなっている。理由としては、それらの技能はAIやパソコンのほうが優れているからである。

 そのことを考えると、計算に関して学生のうちから「パソコンに任せる」という態度を全否定することはできないのではないだろうか*2

 

 ケース2.文章問題

 次は、文章問題である。

 基本的に、計算問題はできるという前提の下で文章問題が出題される。

 先ほどの計算問題はパソコンに任せる部分があってもいいのではないかと述べたのだが、文章問題に関してはパソコンに解くことは難しいとされている*3よって、ある意味現代における数学教育の真骨頂はそこではないかと思う。

  しかし、文章題においてもパソコンが使える時代がぼちぼち来つつある

 文章題を解くときに使うサイトは以下のとおりである。

 

 Yahoo!知恵袋

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 問題文をそのままコピペして、それに類似する解答を見つけてくるという方法である。また、同じような質問がない場合は自分で質問するというのも良いだろう。

 よって、検索すればすぐ出てくるという利点はあるのだが、逆に解答は素人がやっている可能性があるという点には留意しなければならないし、質問に対する回答が自分にとって適切でない場合もあるだろう。例えば、解法が自分の知っている領域外の解答だた、感覚的に解答をするので結局何を言っているのかわからない、等。

 よって、完璧なサイトではないことが分かる。

 

 となると、数学の問題はやっぱり自分で考えて答えを出したり、先ほど書いた古典的な方法で解答を見つけないとなぁ…

 

 とはならないのが現代である。

 

 恐ろしきクァンダの登場

  2018年11月、とある会社がリリースしたアプリが始まりである。

 

f:id:unya_unya2:20200627121514j:plain

引用:https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000044389.html

 

◆アプリの概要
 クァンダは2018年11月、質問の解答がリアルタイムでもらえる質問解答サービスをリリースしました。当アプリは本来、学生が分からない問題の写真を撮ってクァンダにアップすると、東大、京大、東北大など難関大学の先生たちがリアルタイムで解答するサービスでした。先生に直接質問することが難しい学生のが多いことから、モバイルで分からない問題を解決できるサービスが効くと判断しました。

引用:https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000044389.html

  このように、クァンダは数学の問題の解答を難関大学の先生たちがリアルタイムで回答するというサービスを始めた。(本当に難関大学の"教授"がそんなものに参加するのかは些か怪しいが)

 これは、「難関大学」とか言ってるのだから質問の難易度も高いし、おそらく生徒の質もかなり高かったのではないかと推測できる。

 

 しかし、そのレベルを一気に下げる革新的な出来事が出てきた。

◆革新的な検索機能が追加
クァンダは今年の3月には5秒で数学問題の解説を検索できる検索サービスを導入しました。学生は分からない問題の写真を撮って検索すると5秒で該当する問題の解説を無料で見れます。今までになかったサービスに学生は“とても便利”、“一人で勉強するときは神級だ”などのレビューを残し、Twitter上でもクァンダについてツイートをするなど爆発的な人気を得ています。

引用:https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000044389.html

  人工知能が類似した問題を引っ張ってくるという機能が追加されたのだ。

 今まで「人と会話する・本を見つけてくる」ということが、このアプリによって消し去られようとしているのだ。

 

 数学の教員を志している私からしたら、この問題はかなり深刻だと考えている。

 その理由としては、数学を学ぶ意義と密接に関係している。

 

 数学を学ぶ意義は?

 数学を学ぶ意義としては、中学校の学習指導要領*4にはこう書かれている。

 ◆数学的活動と数学を学ぶことの意義
 数学は,問題を発見して解決し,それらを振り返りながら,更に考え続けることで発展をしている。数学を学ぶことは,問題を発見しそれを解決する喜びを感得し,人生をより豊かに生きることに寄与するものと考えられる。また,これからの社会を思慮深く生きる人間を育成することにも大きく貢献すると考えられる。数学の学習では,主体的に問題発見・解決の過程を遂行すること,そして,これを振り返って言語としての数学で表現し,意見の交流や議論などを通して吟味を重ね,更に洗練させていくことが大切であり,ここに数学的活動の教育的意義がある。数学の学習は,こうした活動を通して,数学や数学的構造を認識する過程と捉えることができる。これらの活動を振り返りながら数学的認識を漸次高めていくことは,自らの知識を再構成することにほかならない。

 こうした経験によって得られた知識そのものにも価値があるが,その際に身に付けた知識を獲得する方法,また,知識を構成する視点も重要である。これらは新たな問題解決の有効な手掛かりとなり,新たな問題の発見につながるとともに,新たな知識の獲得を促す源となる。このように新たな知識の獲得や認識の深化は,自らの活動による経験に応じて成されるものであることから,数学的活動を充実し,問題解決に取り組むことができるようにすることが大切である。

 引用:中学校学習指導要領(H29)解説,数学編 p32-33

 このように数学を学ぶ意義としては、「主体的に問題を解決する姿勢」「言語としての数学を表現する」「意見の交流や議論などを通して吟味を重ね,更に洗練させていくこと」が重要なのであり、決して数学の問題が解けるようになったからといって数学教育として完成したということではないのである。

 しかし生徒からしたらそんなのはどうでもよく、「数学の問題が解ければ先生も気分がいいし、私や親も気分がいいからいいや」となってしまう。

  しかし、上記のように「数学の問題をただ解く」というだけでは今やどうでもいいものになりつつある。そこの価値観の転換ができればいいのだが…

 なぜそうなってしまったのか?

  理由としては、「数学の文章題が単純である」という点が挙げられるのではないだろうか。例えば、「〇〇の方程式を解け」や、「関数△△の最大値を求めよ」などのいわば「ベタ問」が挙げられる。

 実際、東ロボくんは国語などの文章問題に関してはまだ回答ができないのに対して、数学や世界史は問題が単純であるので解答ができたというのだ。

 

 と言うことは、「ベタ問」ばかりを解いてきた教育法から転換することを余儀なくされているということが分かる。果たしてそこからどう転換していくべきなのか、現代に適合した数学教育とはどのような姿なのかについては、学生である今において考えるべき問題の1つだとは感じている。

 

まとめ

 最近、テクノロジーの進化によって数学では「計算ができればいい」「数学の問題が解けるだけでいい」という考え方は古く、適応しない考え方だと感じている。

 実際、それらの機能は「Photomath」や「クァンダ」などのアプリにとってかわられている現状がある。

 しかし、数学教育のゴールはそれではなく「自分・他人との会話を経て考えて答えを出す」というのが1つの考え方であり、それらについては様々な議論が起こっている。

 実際、クァンダのGoogle Playのコメント欄には以下の指摘があった。

 

f:id:unya_unya2:20200627131734p:plain

 引用: https://play.google.com/store/apps/details?id=com.mathpresso.qanda&hl=ja

 このアプリを提供するほうからしたら「資本を増やす」ことが目的だと考えると、このような指摘はどうでもいいように見えるだろう。このようなアプリや、今問題になっている塾と学校教育とのかかわり方については再度考え直す必要があると考えている。

 

 現在では、「学校なんかいらない!」といったようなYoutuberがいるくらいであるし学校としての在り方が問われている時代に入ってきたと考えられる。

 よりよく、未来を担っていく若者を育てていくためにもこの問題を機に学校教育を考え直していきたいものである。

 

 

参考文献:

東ロボ君から分かったAIが得意なことと苦手なこと | ノマドジャーナル

【勉強法】数学の質疑応答にAIが活用される時代が来たか…【クァンダ】 │ 理系のひとりごと

*1:例えば、行列の計算等。

*2:もちろん、作者も計算をすべてパソコンに全任せするという態度には反対するが

*3:東ロボくんなどの特殊なAIは別として

*4:ただ私が中学教員を目指しているからこれにしたので、特に深い意味合いはない